Devenir

 「世界を<動詞>として考える」ということ。英語ではbecomeであり、フランス語ではDevenirと言う。それが、「生成変化」と日本語では訳されている単語であるという事は、私にとって興味を惹かれる知識だった。日本語には「動作」の細かなニュアンスを含めた美しい言葉が多く存在するが、外国語は一つの単語の中に、一つの意味に収まらない豊かさがある。日本にも多義語が存在するが、これは外国語の単語が持つ多様さとは、質が異なるような気がする。

 

 英語は主語が無ければ基本的に文章が成り立たない。だからこそ、「●●は、●●である」という単線の論理から離れるべく、「動詞」が重要視された。例えば、何か作品を見たとして、要素の組み立てとして分析するだけではなく、1シーンの中で何かに<なっていく>事を私たちは体感する。映像上で隆起していく流れをbecameという動詞で捉えていく事こそが、上映という「場」が起こす新たな時間の変容を捉える契機になると、私は解釈した。
 私たちが生きている世界に映像上で展開される<二次的な>世界が存在するということは、撮影者にも鑑賞者にも、これまでに存在しなかった「時間」の可能性を常に予知させる。

 先日、とある公開授業に出席した。溝口健二のシーン分析を行うという趣旨だった。「西鶴一代女」の1シーンは、男は廊下に座り、障子越しに女に思いを伝えるという所から始まる。好き合っているにも関わらず、女は男の誘いをかわし自分自身すらも偽ろうとする。そこで、男は女の顔を見たいのか、突然障子を勢いよく開けて、言葉を発する。

 会話の最中に障子を開けるという動作を、「不自然極まりない動作」だと講師は分析する。リアリズムを通せば、このシーンにおいて障子を開けるという動作は、全く必然性が無い。しかし、映像における具体的な演出として男と女をどう<動かすか>という観点から、男にどう障子を開けさせるか?という監督の演出に対する欲望が存在するにである。
 

 男の訴えに揺らぐ女は、障子どころか、廊下の先の庭に出ていってしまう。男と女の位置は180度転換する。そして、倒れる女を、男は抱き抱える。

 講師は、「映画は屈折している」と言った。なぜなら、「二次元を三次元に落とし込み、それを再び二次元に落とし込むからだ」と。
 シナリオでは、まだ生身の人間が存在しない。そこから、現場で具体的な演出に落とし込まなければならない。そして、このように出来上がったシーンは、映像という二次元で、劇的な、しかしあり得るかもしれない第二の現実を作り上げる。この1シーンで展開される「不自然極まりない動作」が、映画において劇的な自然を構築する。

 溝口の教えを受けた新藤兼人は、脚本とは作者の意見表明であると書いていたが、その作者の考えは確定したものではない。書くという行為の中で、作者の常識が変化していく過程、その結果としての結末を措定するのだ。
 抽象的な考えでは映画は出来ず、映画はどこまでも具体である。ミメーシス(模倣)は、自然の再現だ。そうであれば、映画は自然の新たなる再現であり、シミュラークルを作り出すのではないだろうか。映画が、シミュラークルを作り出す。シミュラークルが、私たちの<世界>を揺るがす。


 私たちは、常に何かになっていくという過程の中に存在するより他にない。そして、<世界>に付随する全てによって、私たちの世界は常に新たな世界を知覚する可能性の中にある。