生活≒炊事

 土曜日は、朝10時から仕事をしなければならない。余暇を充実して取ることは難しいスケジュールだ。今日は「生活」を重要視して過ごすと決めた。
 お弁当を作り、野菜を買いに行く。しかし、直売所は9時台には空いていなかった為、単なるサイクリングとなる。本を読んだり、掃除機をかけたり、洗濯物を畳む。あっという間に出勤となったが、もっと自分の時間を過ごしたいという渇望感は軽減したので、良しとする。

 今回の職場は、どうやらきちんと働いていけそうで少し安堵している。和やかに談笑をしつつ、たまにぼんやりとしながら働く。私にとって、仕事は、適当に働いていても成立することがポイントとなる。暇だと飽きる。気を張っている仕事は、その後に何もできなくなるほど疲れ切ってしまう。決して、手を抜いてる訳ではないのだが、週1日であっても、自分のいちばんやりたい事を考えられないほど体力を割かれる物事は避けたい。

 帰宅中、気になっていた職場近くのスーパーに寄ってみる。店内には食料品が乱雑に積まれているが、よくよく見てみると他店よりもかなり安い商品もちらほらとある。野菜や惣菜を買う。
 最近は、炊き込みご飯に熱中している。お弁当の満足度を上げるために始めたが、これがなかなか良い。ご飯を食べることで他の栄養素も取れているということに安心するし、なにより美味しい。今日はスーパーで売っていたとうもろこし1本を芯ごと炊き込んだ。梅雨も近くなり、旬の食材を取り入れることで、体調管理と季節感を両方兼ねた。美味しい。

 やりたい事に集中するために、生活のあらゆる面を簡素に済ませるということは、合理的だし、時には必要だ。しかし、こだわりを蔑ろにすることは、私にとってはストレスとなる。特に、食に関してはそうだ。ゆで卵、サバ缶、米などを特に調理せずに食べ、栄養のみを考えた食事をするということは合理的だ。しかしこのような食事が続くと、私には必要な豊かな何かを損なってしまう。「何か」というのは、情緒的な機微にまつわる事だと思われるが、時間をかけて自分に手をかけているという目にみえる成果が、私にとっては炊事なのかもしれない。