NTLive『ワーニャ』

 ざわざわとした劇場。一人の男が、舞台に出てくる。静まる。これから始まるのは、アンドリュー・スコットの一人芝居「ワーニャ」だ。「ワーニャ」とはもちろん、チェーホフの四代戯曲「ワーニャ叔父さん」である。

 観客は、アンドリューが何をするのか興味を持って見ている。その重い観客の呼吸を、あくまでリラックスした調子で、アンドリューは仕草一つを持って裏切っていく。会場の空気がほぐれる。後は、お馴染みの登場人物たちの会話が、アンドリューの身体一つで演じられていく。
 「『ワーニャ叔父さん』を書いているチェーホフの頭の中を垣間見たような体験。(https://www.ntlive.jp/vanya)」と評されていたが、それは、ひとえにアンドリュー・スコットの演技によって為されたものだ。
 芝居を書くとは、作家の頭の中で行われる妄想である。言い換えれば、高度な「ごっこ遊び」なのだ。アンドリュー・スコットが発話と身体によって作り出すリズムは、まさに一人の身体に様々な登場人物が瞬時に入り込んだように展開される。それは、「演じ分け」という言葉が想起させるような「分離」という言葉のみでは括れない。一人の俳優の身体の中で、登場人物が話したくなったタイミングで、その登場人物が自然に現れていくようなリズムが生まれる。
 舞台の真ん中に置かれた扉をアンドリューが通り過ぎる、すると、登場人物が入れ替わる。この演出は、アンドリューの演技をあくまでそっと補足するようなシンプルなものだ。しかし、その一つのルールを軸に舞台を規定することで、とっらかった一人よがりな「ごっこ遊び」ではなく、舞台を論理的に成立させている。
 アンドリューのリズム、それを的確に導くシンプルな演出によって、古典のテキストを重く扱わず、肩肘を張らない上演となっている。その姿勢はチェーホフの登場人物の所体じみた「かっこ悪さ」を、現代の私たちの感覚と、全くずれない面白さとして伝わる。


 NTLiveとは、海外の演劇を映画館で上映するイベントだ。NTLiveを見る度に、その演劇の内容もさることながら、<演劇の上演を取り扱った>映像作品としての出来の良さに感動してしまう。
 舞台を映像で十二分に届けるという事は難しい。舞台を素朴に撮っても舞台の面白さは全く伝わらないどころか、その舞台で生じるはずであった観客の体験を半分以上は損なってしまっている。舞台の定点記録は、あまりに無機質なカメラの視点であり、肉眼とは全く質的に異なるものだからだ。
 NTliveは、この点に非常に自覚的である。舞台を映像で十二分に伝えるという目的において、映画的手法を用いることで、映像と舞台の体験的な隔たりを、NTliveは乗り越える。演劇を鑑賞する観客の身体感覚を、編集によって、映像上で再構成することで、それは為される。
 演劇を見る観客の視点は、基本的に自由だ。俳優のファンは、望遠鏡でその俳優の動きを常に見ることも出来る。対して、カメラの視点はそのフレームによって限定される。これが、肉眼とカメラの大きな差異である。
 NTliveは、このカメラのフレームという特質を自覚的に利用する。フレームという限定的な視点によって、観客の視点を代替するのである。これは、先ほどの観客の舞台上の集中とは、確かに異なるものだ。しかし、演劇を映像として十二分届けるという目的において、非常に理にかなっている。
 例えば、ソーニャの長台詞。アーストロフとエレーナのメロドラマ的なラブシーン。この舞台の見所を、クローズアップは的確に詳細に捉える。精密な視点は、アンドリューが生み出す表情や息遣いを正確に記録するのだ。この集中は、演劇を見る観客が舞台を固唾を飲んで見ている<視線>とは質的に全く異なるにも関わらず、演劇における<没入>に確かに繋がっている。
 NTliveの映像編集が、ショットによって代替するのは、観客の<視点>だけではない。観客が舞台を眺める際に生じる快楽である<没入>体験を、映画の鑑賞として、つまり映画を鑑賞する観客の<没入>体験へと、演劇を映像作品として、再構成している。

 ここまで来て私たちはようやく、演劇を演劇として、映像上でまなざすことが出来る。魚の小骨を抜くような映像編集を経て、私たちは演劇の映像記録に対する身体的な違和感をようやく手放せるのだ。