さぼり

 何かを失敗した時、失敗しそうな時、不安な時、いつも「頭が悪いな」という言葉が頭に浮かぶ。どんな時でも私は私が一番だと思っていたいし、そう思えないような状況に自分を置いてしまうと、緩やかに苦痛だ。
 「頭が悪い」と「察しが悪い」という言葉は、隣接している。両者の言葉を発する時、大抵は両者のニュアンスが混ざり込んでいる。「あなたの思う普通を教えて」と思いながら、常に「普通」になることはできなかった。人によって「普通」の基準は異なり、その意味は常に揺らいでいて、ついていけない。  
 人より出来ている、物を分かっている、というポジションでありたいという意識が捩れていて、常に全能感を持てない。一番じゃないことには慣れているのに、特殊であるというアイデンティティが揺らぐと、もう私が生きている意味なんか無いんじゃないかという風に思ってしまって、どうしようもない。今は今だけであって、今と未来しかいらない。過去は、私に不安感を与える。私は、私に「あなたは頭が悪いのではない」と言ってあげることは出来るが、「まだやり方を知らないだけ」と追い詰めてしまう。
 結局は「私は人と違って何かが欠如している」という根底は覆っていない。

 

 一人暮らしを始めてから、人と暮らすことはあり得ないかもしれないと思うようになった。安全圏が確保されていることは、私を自由にしてくれた。一人で自分を律する事ができたという自負は、心を穏やかにしてくれた。私は、過去の私を否定することで自分を保ってきた。ルーティーンを課すことで、自分で自分を「人並み」に持っていけているような気がして嬉しかったのだ。しかし、ただこなすだけでは、物事は徐々に停滞していくらしい。何かをこなしても、それが他者の評価に適うものではないと私が私を判断する事が増えた。私が発する言葉を、私が否定する事が増えた。同時に、自分とは異なる視点を受け入れる事ができなくなった。自分の中の何かが、知らず知らずに痩せていった。 


 その結果なのか、ここ数日、わたしは仕事以外の全てを休んでいる。家事をして、学業に関係ない文章を書いていると何かが心に満ちていく。来週は、学業にも復帰できるだろう。特に意味のある事を考えずに、ぼんやりとしている時が、一番楽しい。他人に干渉されず、自分の心の中の波に揺らぎ続けること、その波が、午後の光で満ちていること、柔らかな光に私の精神を包まれていることを「安心」と呼ぶ。

 私は、私をのびやかに保っていたい。他人が私と同じことを行った時に、他人がどれくらい出来ているかとか、他人の結果がどれほど私より優れているか、とかじゃなくて、自分で自分の考えを面白がりたいし新鮮に感じていたい。厳格な習慣はある種の脆さを覆い隠すと同時に、自己の内部に存在する揺らぎを否定するのか。