娯楽

 友人宅にて起床。アラームを早く仕掛けてしまって、起床早々、軽く叱られる。午後には仕事があったので、喫茶店でモーニングを食べて別れた。いつまで喋っていても、本当に些細な話題で笑い合うような人達。暗い話もなぜか暗く聞こえず、明るい話は本当に馬鹿みたいに明るい。老人ホームに入っても、友人とくっちゃべっていたいし、はしゃぎすぎて介護士に怒られたい。

 ぼんやりしていても時は進んでいく。3日後には、また口頭発表が控えているらしい。また、とは言ったが、私は昨日の講義を休んだ為に、別の発表を一つ延期している。資料が仕上がらなかったのだ。常日頃、調子が悪くても間に合わせる事が大切だと思うようにしているが、体力的に疲弊してしまうと心が折れてしまう。もっと純粋に、物事を面白がりたい。新鮮さを持つ為に、つまらない工程をこなせる胆力が欲しい。今この瞬間が面白くないと、先行きに思いを馳せられない。最初に書いたものは消えると思った方がいいし、書いている内に結論に辿り着いている。無意識的な取捨選択によって、自ずと結論が目の前に置かれるといった方がいいのかもしれない。気力に満ちていると、少しだけ自分の「飽き」を完治する速度を遅くできる気がする。だから、まずはよく眠って、判断力と気力を維持したい。

 

 仕事帰り、上司に「映画の研究など何の意味があるのか」と言われた。私は困った。実学だけが必要なわけはないだろうし、それでは文系の研究は全ていらない事になるだろうと返したが、なんだかしっくりこない。確かにこういった種類の質問を聞いたことはあるけれど、実際に目の前で言われた事は初めてで、全くうまく答えられなかった。確かに、色々と教科書通りの回答は浮かぶが、どれも私の実感に則してはいなかった。
 批評や方法論が、未来の誰かの感受性を肯定すると思える事は大きいけれど、映画が娯楽であるからこそ曖昧になる。そもそも、研究に対して現在における意義や実用性について問うことはナンセンスだ。そのように突っぱねたくなる。しかし、これは根本的な問いに答えていないような気がする。生真面目に答える必要もないのに、こういう質問をされる度に考えてしまう。

 世の中の大半の人にとって、そして私にとっても、芸術は娯楽だ。単に娯楽、されど娯楽。架空の世界があることで私は大いに救われてきた。しかし、世の中には特段それほど思っていない人が大半なのだ。その事に絶望はしない。むしろ当たり前だと思う。私は、主観的な視点で、映画の研究は必要だと思っている。それ以上の意義は、私以外が語ってくれる。私は、私が納得できる理由を、過去と繋げて、相手と話したかった。