リズム

 よく寝る。6時半に起きる。回復。やっと自分の時間が戻ってきた感覚に満たされる。母が一週間ほど来訪しており、諸々の生活リズムが崩れたのが良くなかったのかもしれない。母はとても刺激的でユニークな人が故に、情緒のリズムが早い。 気分屋とも言えるが、とにかく判断が早い。朝、ゆっくりと携帯をいじっているかと思えば、急に予定が遅れていると焦りだす。そして、そのペースに合わせることを強要してくる。
 思いつきを、もの凄い速さで実現させようとするので1日の予定がどうなるのかも分からないし、本来の予定はどんどんズレる。そして、ズレたことにも苛立っている。一旦、前後の予定と照らし合わせてから手を出せばいいのにと側から見ると思うのだが、多少無理があっても一日に全てを詰め込む忙しなさも含めて、彼女の充実感に繋がっているのだろう。


 母がいる時に、自分の予定を合わせることはとても難しい。時間が細切れにされると、何も手につかない。隙間時間に何かしようと思えないほど、母との生活には、刺激が多い。いや、母という存在そのものが刺激なのだ。
 「あんたを育てるのは今思えば楽しかったわ、ジェットコースターみたいで」居酒屋で母が言った。急にセンチメンタルな面を見せてくる。私からすれば、母の方がよほどジェットコースターだ。結局、同族なのかもしれない。


私のパジャマを着て同じようなショートカットをしている母を暗がりで見ると、本当によく似ている。年齢を重ねるごとに、瓜二つになっていく。どこかに籠ってしまう私が一つの場所に留まらないのは、自分の平穏に退屈する暇も感じないほど動き回る母の側に育ったことは大きい。嫌いではないけれど、次に来る時は3日程度がありがたい。疲れるから。

 ありがとう。

 

混沌とした虚無

 何も特別じゃなくていい。何もしなくていい。自分を前向きにすることにも疲れた。自分を「出来る・分かっている」という状態に持っていくために、身体を動かそうとすることにも疲れた。これは、五月病なのだろうか。

 

 平均以上に物事をしないとつまらない。しかし、全てに振り切ることは物理的に不可能だ。「手を抜く」という事と「やれる事をやれる所までやる」という事は全く違う事なのに、何故かそれが混ざってしまう。
 今週は、自分が為すことに退屈している。少しでも、良くしようと思いつつも自分から出てくるものがつまらなくてしょうがない。興味もない、面白いとも思わない粗雑なニュース記事を眺めて、ただ刺激を与えることで自分の感情の在処を誤魔化している。

 もっと、自分がやりたいことをやりたい。一人でこもっていたい。「本当にやりたいこと」は一つなのに、やりたいことから派生したやるべきことや、一番ではないけどやりたいことに時間は取られて、ライフワークに辿り着けない事が苦しい。「バランスをとること」が必要なのは分かっている。どれも全力で出来ないのも分かっている。でも、とにかく自分が自分に退屈している状態から脱したい。


 そう思って、今日は書き始めた。どこかに行きたい。自分の身体以外に、何も残したくない。他人のことにも興味が薄い。SNSが発展していなかった昔は、今でいう承認欲求なんて無かったって、先生は言うけど本当?
 岡崎京子を読んでる私は、どんな時代も、空虚な消費だって集団の同調性だって、昔からあったって思うよ。やっぱり、私だけ論点ズレてる?

 

NTLive『ワーニャ』

 ざわざわとした劇場。一人の男が、舞台に出てくる。静まる。これから始まるのは、アンドリュー・スコットの一人芝居「ワーニャ」だ。「ワーニャ」とはもちろん、チェーホフの四代戯曲「ワーニャ叔父さん」である。

 観客は、アンドリューが何をするのか興味を持って見ている。その重い観客の呼吸を、あくまでリラックスした調子で、アンドリューは仕草一つを持って裏切っていく。会場の空気がほぐれる。後は、お馴染みの登場人物たちの会話が、アンドリューの身体一つで演じられていく。
 「『ワーニャ叔父さん』を書いているチェーホフの頭の中を垣間見たような体験。(https://www.ntlive.jp/vanya)」と評されていたが、それは、ひとえにアンドリュー・スコットの演技によって為されたものだ。
 芝居を書くとは、作家の頭の中で行われる妄想である。言い換えれば、高度な「ごっこ遊び」なのだ。アンドリュー・スコットが発話と身体によって作り出すリズムは、まさに一人の身体に様々な登場人物が瞬時に入り込んだように展開される。それは、「演じ分け」という言葉が想起させるような「分離」という言葉のみでは括れない。一人の俳優の身体の中で、登場人物が話したくなったタイミングで、その登場人物が自然に現れていくようなリズムが生まれる。
 舞台の真ん中に置かれた扉をアンドリューが通り過ぎる、すると、登場人物が入れ替わる。この演出は、アンドリューの演技をあくまでそっと補足するようなシンプルなものだ。しかし、その一つのルールを軸に舞台を規定することで、とっらかった一人よがりな「ごっこ遊び」ではなく、舞台を論理的に成立させている。
 アンドリューのリズム、それを的確に導くシンプルな演出によって、古典のテキストを重く扱わず、肩肘を張らない上演となっている。その姿勢はチェーホフの登場人物の所体じみた「かっこ悪さ」を、現代の私たちの感覚と、全くずれない面白さとして伝わる。


 NTLiveとは、海外の演劇を映画館で上映するイベントだ。NTLiveを見る度に、その演劇の内容もさることながら、<演劇の上演を取り扱った>映像作品としての出来の良さに感動してしまう。
 舞台を映像で十二分に届けるという事は難しい。舞台を素朴に撮っても舞台の面白さは全く伝わらないどころか、その舞台で生じるはずであった観客の体験を半分以上は損なってしまっている。舞台の定点記録は、あまりに無機質なカメラの視点であり、肉眼とは全く質的に異なるものだからだ。
 NTliveは、この点に非常に自覚的である。舞台を映像で十二分に伝えるという目的において、映画的手法を用いることで、映像と舞台の体験的な隔たりを、NTliveは乗り越える。演劇を鑑賞する観客の身体感覚を、編集によって、映像上で再構成することで、それは為される。
 演劇を見る観客の視点は、基本的に自由だ。俳優のファンは、望遠鏡でその俳優の動きを常に見ることも出来る。対して、カメラの視点はそのフレームによって限定される。これが、肉眼とカメラの大きな差異である。
 NTliveは、このカメラのフレームという特質を自覚的に利用する。フレームという限定的な視点によって、観客の視点を代替するのである。これは、先ほどの観客の舞台上の集中とは、確かに異なるものだ。しかし、演劇を映像として十二分届けるという目的において、非常に理にかなっている。
 例えば、ソーニャの長台詞。アーストロフとエレーナのメロドラマ的なラブシーン。この舞台の見所を、クローズアップは的確に詳細に捉える。精密な視点は、アンドリューが生み出す表情や息遣いを正確に記録するのだ。この集中は、演劇を見る観客が舞台を固唾を飲んで見ている<視線>とは質的に全く異なるにも関わらず、演劇における<没入>に確かに繋がっている。
 NTliveの映像編集が、ショットによって代替するのは、観客の<視点>だけではない。観客が舞台を眺める際に生じる快楽である<没入>体験を、映画の鑑賞として、つまり映画を鑑賞する観客の<没入>体験へと、演劇を映像作品として、再構成している。

 ここまで来て私たちはようやく、演劇を演劇として、映像上でまなざすことが出来る。魚の小骨を抜くような映像編集を経て、私たちは演劇の映像記録に対する身体的な違和感をようやく手放せるのだ。

オアシスの住人

 847分起床。昼頃から図書館に向かう。17時に図書館が閉まってしまうので、夜は、NTL「ワーニャ」を観に行く。


 駅に向かう途中、本屋で『違国日記』5巻を買った。定価で本を買うことはごく稀だが、人気漫画に関しては古本でも値引き100円程度にしかならないので、最近は定価で購入している。物も増やしたくないし、漫画は売っても二束三文なので、家に置いておきたい作品だけを引越しの際に厳選した。
 『違国日記』は完結しているが、惜しむように1巻ずつ買っている。やっと折り返し。我慢しきれず、電車で読み始める。

 孤独を自覚し、自身の一面としてその領域を守ることで、他人を尊重できる。そのことは私にとっては救いだ。しかし、そうじゃない人も存在している。自身と異なった感情の機微を持つ人であっても、自分の有り様のまま、その人と関わり続けるキャラクターを見ていると、何かを解消しなくても、曖昧なまま進んでいく人間の在り方への豊かさを思う。

 

生活≒炊事

 土曜日は、朝10時から仕事をしなければならない。余暇を充実して取ることは難しいスケジュールだ。今日は「生活」を重要視して過ごすと決めた。
 お弁当を作り、野菜を買いに行く。しかし、直売所は9時台には空いていなかった為、単なるサイクリングとなる。本を読んだり、掃除機をかけたり、洗濯物を畳む。あっという間に出勤となったが、もっと自分の時間を過ごしたいという渇望感は軽減したので、良しとする。

 今回の職場は、どうやらきちんと働いていけそうで少し安堵している。和やかに談笑をしつつ、たまにぼんやりとしながら働く。私にとって、仕事は、適当に働いていても成立することがポイントとなる。暇だと飽きる。気を張っている仕事は、その後に何もできなくなるほど疲れ切ってしまう。決して、手を抜いてる訳ではないのだが、週1日であっても、自分のいちばんやりたい事を考えられないほど体力を割かれる物事は避けたい。

 帰宅中、気になっていた職場近くのスーパーに寄ってみる。店内には食料品が乱雑に積まれているが、よくよく見てみると他店よりもかなり安い商品もちらほらとある。野菜や惣菜を買う。
 最近は、炊き込みご飯に熱中している。お弁当の満足度を上げるために始めたが、これがなかなか良い。ご飯を食べることで他の栄養素も取れているということに安心するし、なにより美味しい。今日はスーパーで売っていたとうもろこし1本を芯ごと炊き込んだ。梅雨も近くなり、旬の食材を取り入れることで、体調管理と季節感を両方兼ねた。美味しい。

 やりたい事に集中するために、生活のあらゆる面を簡素に済ませるということは、合理的だし、時には必要だ。しかし、こだわりを蔑ろにすることは、私にとってはストレスとなる。特に、食に関してはそうだ。ゆで卵、サバ缶、米などを特に調理せずに食べ、栄養のみを考えた食事をするということは合理的だ。しかしこのような食事が続くと、私には必要な豊かな何かを損なってしまう。「何か」というのは、情緒的な機微にまつわる事だと思われるが、時間をかけて自分に手をかけているという目にみえる成果が、私にとっては炊事なのかもしれない。

Devenir

 「世界を<動詞>として考える」ということ。英語ではbecomeであり、フランス語ではDevenirと言う。それが、「生成変化」と日本語では訳されている単語であるという事は、私にとって興味を惹かれる知識だった。日本語には「動作」の細かなニュアンスを含めた美しい言葉が多く存在するが、外国語は一つの単語の中に、一つの意味に収まらない豊かさがある。日本にも多義語が存在するが、これは外国語の単語が持つ多様さとは、質が異なるような気がする。

 

 英語は主語が無ければ基本的に文章が成り立たない。だからこそ、「●●は、●●である」という単線の論理から離れるべく、「動詞」が重要視された。例えば、何か作品を見たとして、要素の組み立てとして分析するだけではなく、1シーンの中で何かに<なっていく>事を私たちは体感する。映像上で隆起していく流れをbecameという動詞で捉えていく事こそが、上映という「場」が起こす新たな時間の変容を捉える契機になると、私は解釈した。
 私たちが生きている世界に映像上で展開される<二次的な>世界が存在するということは、撮影者にも鑑賞者にも、これまでに存在しなかった「時間」の可能性を常に予知させる。

 先日、とある公開授業に出席した。溝口健二のシーン分析を行うという趣旨だった。「西鶴一代女」の1シーンは、男は廊下に座り、障子越しに女に思いを伝えるという所から始まる。好き合っているにも関わらず、女は男の誘いをかわし自分自身すらも偽ろうとする。そこで、男は女の顔を見たいのか、突然障子を勢いよく開けて、言葉を発する。

 会話の最中に障子を開けるという動作を、「不自然極まりない動作」だと講師は分析する。リアリズムを通せば、このシーンにおいて障子を開けるという動作は、全く必然性が無い。しかし、映像における具体的な演出として男と女をどう<動かすか>という観点から、男にどう障子を開けさせるか?という監督の演出に対する欲望が存在するにである。
 

 男の訴えに揺らぐ女は、障子どころか、廊下の先の庭に出ていってしまう。男と女の位置は180度転換する。そして、倒れる女を、男は抱き抱える。

 講師は、「映画は屈折している」と言った。なぜなら、「二次元を三次元に落とし込み、それを再び二次元に落とし込むからだ」と。
 シナリオでは、まだ生身の人間が存在しない。そこから、現場で具体的な演出に落とし込まなければならない。そして、このように出来上がったシーンは、映像という二次元で、劇的な、しかしあり得るかもしれない第二の現実を作り上げる。この1シーンで展開される「不自然極まりない動作」が、映画において劇的な自然を構築する。

 溝口の教えを受けた新藤兼人は、脚本とは作者の意見表明であると書いていたが、その作者の考えは確定したものではない。書くという行為の中で、作者の常識が変化していく過程、その結果としての結末を措定するのだ。
 抽象的な考えでは映画は出来ず、映画はどこまでも具体である。ミメーシス(模倣)は、自然の再現だ。そうであれば、映画は自然の新たなる再現であり、シミュラークルを作り出すのではないだろうか。映画が、シミュラークルを作り出す。シミュラークルが、私たちの<世界>を揺るがす。


 私たちは、常に何かになっていくという過程の中に存在するより他にない。そして、<世界>に付随する全てによって、私たちの世界は常に新たな世界を知覚する可能性の中にある。

 

速度

あっという間に過ぎた1日だった。

「ワーニャ伯父さん」を読んで、目を覚ます。弁当を作り、授業に出て、図書館にいた。労働を除けば、ほとんど毎日がこのスケジュールで進んでいく。
 昼食後、せめて進めることが出来る事からやろうと、やる気なくパソコンに向かっていたのだが、一度手をつけると、ここまで出来たならまだいけるだろうと、抱えていた物事の一つを終わった。やってみるものだ。

 これを「充実」していると言わなくて何を「充実」なんだというような1日だったけれど、今書けるのはこのくらいで、書く事は出来るけれど、まとめるには時間が足りない散文がいくつかある。旅人算だ。箇条書きで書かれた確信は、時間を置かないと、うまく繋がらず流れていかない。まとまらなくても、少しずつ、それは確かな輪郭を見せてくる。毎日変わらず、手繰り寄せていく。

 ヘミングウェイの「老人と海」を読み直したい。