手探り

清々しく晴れて、夏の始まりを肌で感じる。日当たりが良い我が家は、夏の間どうなってしまうのかと戦々恐々とするくらいだ。梅雨入りは目前なのに、この空を見ていると梅雨をすっ飛ばして夏になってしまうんじゃないかと思えてくる。

 

 毎日、なんだかんだと手を動かしている。作業自体が一日の中に当たり前に組み込まれてしまった今、以前と違うのは、手を動かすという行為自体に確かな気づきが結びついていると実感できていることだ。地元でゆっくりと暮らしていても心がけ次第で得られたとも思う。だが、人に見られていないと思えたことで初めて、私は坦々と行動することができているのだとも同時に思う。誰かに見ているという励みは、そう思わせてくれる他者が遠くにいてこそ大事にできるのではないだろうか。

 

毎日、寝て起きて食事をして、家事をして、自分の興味の赴くままに、手を動かす。最初は「手探り」に近い。手を動かし始める時、その動機は確固とした事物へと真っ直ぐと伸びているわけではない。それには、もたもたとした倦怠感すら伴っている。やめちゃおうかしらんという考えもひらっとよぎる。その中でも、辛抱強く手を動かしているとツッと引っかかりがある。なんだろうと気づく。その気づきを繋いでいくと、連なっていく、小さなかたまりとなる。かたまりは総じて不格好で、大半は捨ててしまう。だが、よく見ると、こういうことが言いたかったのかとしっくりくるものが確かに紛れ込んでいる。

 

このしっくりくるという感覚を、多く得たい。何が好き?何が嫌い?何に居心地の悪さを感じた?何に躊躇した?と。このように、些末な物事を細々と集め、観察する。そうすると、一つ一つ、解放されていくような心地がする。

悪目立ちしたくない。自分は特別だと思っていたい。恥ずかしさを受け入れたい。人の目を前にしても堂々としていたい。欲望は、歪で矛盾だらけのままだ。その納まりの悪さを、自分には隠し通せない。でこぼこを撫でてみる。形だけを認識する。ああ、自分はこう思っていたのかと身体に感情が沿っていく。その瞬間、私という線は引き直される。