ぽつぽつと、

 踊りの授業に出た。今日からは、授業内発表に向けて一連の流れで動く。踊りといっても、いつも明確な振りが渡される訳ではない。あくまで、ただ生活している時には現れない動きを試していく。自由に動いていくような所から、踊りは始まるのだ。ただ、自由に、と一言に言っても、何度も試すと、自分という枠の中に既に在る「自由」という動きが固定されていく。振りを渡されることは、全く違うリズムをやってみることだ。振りは、自分の枠の外に、まだ知らない動きがある事を教えてくれた。
 どれだけ知らない動きを持っているんだろう。からだは、ちょっとしたリズムの違いだけでも、するっとやったことのない動きを見せてくれる。打って変わった軽やかさに、自分ごとながら、拍子抜けする。
 自己に閉じこもらず、他者に意識を向けながら、自分自身の身体の新たな感覚を探る。この事は、まだ十分には分からない。それでも、考えていなかった方向に動いていく自分の体が、前よりは少し興味深い。居心地の悪さを感じてしまうのは、自分が悪目立ちしているんじゃないかと思うからだ。


 私は普通になりたい。かまってほしいんだ、目立ちたいんだ、と思われたくない。実際、そう言われた時、私は目立ちたいともかまわれたいとも全く思っていないことの方が多い。「なにか言われるかもしれない」という強烈な自意識が、そのような挙動を生むのだと思う。踊りは楽しい。ただ、過去の記憶の集積が、私の歩幅を狭くする。

 不器用だと本人に指摘する人の前では、うまく立ち回ることはできない。ちゃんとやらなきゃと思えば思うほど、手先は強張り、腕は軋む。一つでもリズムが狂えば、全ての動作が噛み合わなくなる。ドミノのように、全ての要素が倒れてしまう。

 教授は生徒の出立ちの違いを一つ一つ面白がっている。この違いを、本当に私は面白がれているのだろうか。特徴を面白がることで、その特徴はそこまで悪くないかもしれないと思えることだって、きっとある。今すぐに、ふてぶてしく図々しくなれるほど、器用じゃない。