明日を迎えに行こう

 学期末につき、タスクが増えてきた。毎日、関係のない文章は1000字以上書いているのだから、問題ないと言いたいところだけど、下調べや見通しが必要なんじゃないかと考え始めると、腕が重くなる。

 気負わなくてもいいと言い聞かせる。私が何かを放棄する時に、お決まりのパターンなので、分かった上でどう回避するかを考えたい。
この文章を打った三日後に、無事に一つ課題をこなした。大体終わってきたけど、あと2本、レポートを出さないといけない。出来る範囲で行えばいいと思っているけれど、自分が納得するクオリティには到達したい。結局、教授に合わせてそつなく仕上げるという器用さを、私は持たない。それは、悪いことではない。
 なんとなくモヤモヤする。この形にならない気持ちを持っていること、まとめようと努力しながらも、安易にまとめようとしないこと、モヤモヤとした気持ちを<持っている>という行為に根気強く付き合うこと。私は、これを続けてみようと思う。


寝ても覚めても」と「ドライブ・マイ・カー」を見直す。続けて、「きみの鳥はうたえる」を見る。今日は、「ケイコ、目を澄ませて」を見る。
 濱口竜介三宅唱は、身体に目がいく画面を撮るのに、二人の興味は全く違っている事が画面に現れていると思う。この両者の相違が、現代の映画において語るべきであり、語られてきていることなのだと思う。凄く興味がある。

 凄く興味を持って見ていたわけではないのに、「推しの子」を見切ってしまった。今でも凄く面白いと思ってるわけじゃないのに、見切ってしまう。何かを解釈することにエネルギーが全くいらない。解釈の必要な身体を見つめることと、一切の解釈がいらない丁寧過ぎる創作物を見ること、交互浴のよう。これは、あまり、気持ち良くない。